まず最初に、謝らせてください。
あなたにずっと嘘をついていることが、ひとつあります。
それは、捜査資料の中にある、殺害現場に落ちていた写真についてです。
山梨県警の高尾さんから受け取った捜査資料を確認したとき、そこに入っていたあの写真を見て私は心底驚きました。ベンチに座っている子供が、幼いときの自分とそっくりだったからです。
埼玉県の青光園という児童養護施設で暮らしていた頃で、大好きだったキツネのキャップとぬいぐるみも、よく憶えています。後ろに写っているのは園の友達と先生で、近くにある公園でサッカーをして遊んでいたときに撮られたものだと思います。高岡くん(こっちを向いている男の子です)という、いつも私に優しくしてくれた子が、いっしょにやらないかと誘ってくれたのですが、私はとても引っ込みじあんだったので、どうしても仲間に入れず、一人ぽつんとベンチに座っていました。
どうしてその写真が、三垣宗純さんの殺害現場に落ちていたのか。何かの間違いだとしても、いったいどんな間違いなのか、私には想像もつきませんでした。困惑し、何度も写真を見直しているうちに、ベンチに座っているのが本当に自分なのかどうかも、だんだんと自信が持てなくなってきました。
あなたのお力をお借りしようと決心したのは、そのときのことです。
あの未解決事件の謎を解明してもらいたい。
そして私自身に関する謎も、あなたの能力で、どうか解いてもらいたい。
私があの写真に固執したのも、そこに理由がありました。これまでお話しすることができなかったことを、本当に申し訳なく思います。
あなたが捜査を引き受け、あの写真が撮られた年を特定してくれたとき、私は確信しました。ベンチに座っているのはたしかに私であり、三垣宗純さんが日記に書いていた「あの子」というのも、私のことだったのだと。
私はずっと、自分の両親が誰なのかを知らずに生きてきました。どうして児童養護施設に引き取られたのかも聞かされていません。でも、もしかして私の父親は、殺された三垣宗純さんなのではないか。そう考えると、三垣宗純さんが書いた日記の意味や、彼が幼い頃の私の写真を持っていた理由が理解できます。
では、母親はいったい誰なのか。
それについて私は、自分だけができる方法で調べることにしました。
懐かしい青光園を訪ね、私が入園した頃の資料を見せてもらったのです。
すると、ある新聞記事が出てきました。1978年12月26日、埼玉日報の記事で、妊婦の自殺未遂と行方不明を報じているものでした。
私の誕生日は12月26日だと、物心ついたときに青光園で教えられました。しかし、その日にどこでどうやって産まれたのかは、それまで知らずに生きてきました。でも、この新聞記事に書かれている「赤ん坊」というのが私であれば、まさに誕生日は12月26日ということになります。
記事の最後には「鈴のついた小仏」という言葉が書かれていました。それを見て私がどれだけ驚いたことか、ご想像いただけるかと思います。
三垣宗純さんが殺害されたとき、増山昭江さんが持っていた小仏。そして、殺害現場に落ちていた小さな鈴。彼女は警察の取り調べで、小仏に鈴などついていなかったと言っていたけれど、本当は鈴がついていたのではないか。いつのまにかそれが消えていたから、殺害現場に落としてしまった可能性を考え、嘘をついたのではないか。
そうなると、増山昭江さんが三垣宗純さんを殺した犯人ということになります。
そして、1978年の新聞記事に書かれている妊婦が増山昭江さんだとすると、彼女こそが私の母親であり、あの殺人事件では、私の母親が父親を殺したということになってしまいます。
もちろん確信などありません。
私はこれから、増山昭江さん本人に会ってきます。1978年の新聞記事を見せ、鈴がついた小仏のことを話し、彼女を三垣宗純さん殺害事件の犯人として告発してくるつもりです。自分の出自などについては伏せたまま、相手がどう反応するかを、この目でしっかり見ようと思っています。
結果はもちろん、帰宅したらすぐにあなたにご報告します。自宅のそばまで戻ったら、このメッセージへのパスワードをあなたにお伝えするつもりなので、いまこれを読んでくれているということは、もうすぐですね。
これからどうなるのか、私にはまったくわかりません。
怖くて、でも、楽しみです。私は一人の人間であると同時に、やっぱりノンフィクションライターなのだなと、あらためて思います。
この事件を解決に導けた暁には、是非あなたに直接お目にかかってお礼を言わせてください。そのときには、わたし自身に関する謎も解けているのかもしれません。そう考えると、やはりとても怖いのですが、生きていくのに勇気が必要だということは、子供時代から充分すぎるほどわかっています。
では、また後ほど。
立花未知留